舞台

【新国立劇場 中劇場】菅田将暉はカリギュラでメタモルフォーゼ(変容)した~私的感想~

(以下、敬称略)

この変容はどうであろう。

 

初日直後のカリギュラを観終えた後、私は肩を落とさざるを得なかった。菅田将暉も所詮テレビ育ちの俳優なのか。

映像の中で跳躍する菅田将暉は、変幻自在にその姿を変え、画面に収まり切れない、ほとばしるエネルギーを持って私たちを魅了してきた。まるで、演じる人間そのものが乗り移ったかのような様は、次に彼の演じる役処を楽しみにせずにはいられなかった。

だが、舞台の上でカリギュラという大役を果たすには、彼にはまだ早過ぎたか。いや、元々その技量が無かったか・・・。

台詞は浮わっ滑りし、共演者達との掛け合いもしっくりこない。間の取り方もチグハグ。私にとって大枚である1万円を払ってまで足を運ぶ価値のある芝居ではあるとは言えず、軽い苛立ちさえ思(おぼ)えた。

期待を裏切られたという私の身勝手な思いとは裏腹に、カーテンコールの際、一定の観客ではあるがスタンディングオべーションする光景が目に映った。いったい、何を観ているんだろう。菅田将輝のファンであろうか、いや、であればこそ、厳しい目で見て欲しい。これ又、身勝手な思いを抱いていた。

菅田将暉という俳優に期待し過ぎた自分自身にさえ、軽い落胆を感じていたのだ。だが、もう1度、菅田カリギュラを観る機会は残っていた。

 

10日余りという時間をあけ、先週2度目のカリギュラを観た。

菅田将暉は、変容していた。禍々しくも美しい狂気の王カリギュラが舞台の上でヒリヒリするような新しい生命を得ていた。たった、10日。たった10日で、これ程変わるとは。今更ながら、菅田将暉という俳優はやはりただものでは無かったようだ。

 

菅田将暉演じるカリギュラの登場シーン。まるで1本のレーザー光線が突き刺さったかのようなラインが舞台奥に浮かび上がる。斜めに差し込んだ、一筋の光がレーザー光線で無いと気付くのは、その禍々しい真っ赤な光が傷口を押し広げるように大きくなっていく時だ。

刀で切り開かれるように、毒々しくも鮮やかな真っ赤な光は広がって行き、その隙間から狂王カリギュラが顔をのぞかせる。斜めに突き刺さった不安定なライン、禍々しい、まるで身体の中をドクドクと流れる血液の様な赤色は、その後のカリギュラの運命を暗示しているかのようだ。

ローマ帝国第3代皇帝カリギュラの人生は、この芝居を観に行くような人間であれば知っているだろう。何かに責め立てられるかのように終末に向かって生き急ぐ、切り立った崖の上をつま先で歩くような人生を菅田カリギュラは舞台の上で魅せてくれた。

手を出せば痛い目に合うのは分かり切っているのに、手を出さずにはいられない。ヒリヒリするように危険で魅力的なカリギュラが舞台の上で生き、苦悩していた。今、現在の年齢で菅田将暉が演じるカリギュラを観たいという思いに間違いはなかったのだ。

もっとも、まだ台詞の滑り感はすっかり取れていないし、元はと言えば練習時間が足りなかったのではないかという思いはあるが、この短期間での変容ぶりは驚異的であろう。

 

以前、野田マップ「MIWA」での宮沢りえもそうだった。美輪明宏をオマージュした舞台で、古田新太と表と裏の美輪明宏を演じるという、芝居ファンとしては見逃す訳にはいかないが、俳優としては二の足を踏んでしまいそうな役処を良くぞ受けたものだと、この舞台も間をあけて2枚のチケットを手に入れた。

MIWA(野田マップ)

やはり、舞台という修羅の場数が違い過ぎた。同じセリフを同時に叫んでも、古田の声に宮沢りえの声はかき消される。美輪明宏という生ける伝説の、底無しの怪物を古田は体現していた。

そうだよな、華はあるが、さすがに古田新太との掛け合いは無理だよな。良く頑張ったよ、リエちゃん、と不遜ながらも心落ちしながら帰途に着いたのを今でも覚えている。しかし、時間を空けて再度観た宮沢りえは、古田新太と見事に表裏一体と化し、輝くようなオーラを放っていた。

 

 

カリギュラの東京公演は残念ながら、2019年11月24日に終わってる。更に進化しているであろう、菅田カリギュラを観られる福岡、兵庫、仙台の観客が妬ましい。

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そして、菅田将暉が今の年齢で演じるカリギュラを観られたという事は、演劇ファンとしては至高の喜びである。舞台を作り上げて下さった関係者の方々に心から御礼したい。素晴らしい舞台を有難うございました。

カリギュラ

カリギュラ』(Caligula)は、アルベール・カミュの戯曲。1945年初演、4幕。暴君として知られるローマ帝国第3代皇帝カリギュラを題材にした作品で、作者より「異邦人」「シーシュポスの神話」とともに「不条理」をテーマとする連作の一つとして位置づけられている。成立は1938年ころ、故郷であるアルジェリアに滞在していた時期と推測され、カミュの戯曲第1作にあたる作品である。ただし初演は「誤解」のほうが早い。

舞台はカリギュラの宮殿。最愛の妹であり情婦であったドリュジラを失ったカリギュラは、3日間失踪したのち人々の前に姿を現す。それまで理想的な君主であった彼はその日を境に豹変し、月を手に入れるといった不可能事を求めはじめ、神に代わる者として気まぐれな圧制を敷くようになる。それから3年の間、カリギュラは民から財産を奪い、臣下を殺し、妻を奪い、また自らグロテスクな仮装をして乱痴気騒ぎをするといったことを続ける。臣下は恐れをなしているが、彼に父を殺された少年シピオンや年増の情婦セゾニア、奴隷出身のエリコンらは彼を憎むことができない。しかし、冷静な臣下ケレアは着々と暗殺計画を進める。その計画は回状のかたちで事前にカリギュラに露見するが、カリギュラは自分に逆らうのも休息になると称して、ケレアの前でその証拠の回状を破棄する。そして「死」を題材にした詩のコンクールを開き、反逆のざわめきが響き始めるなかでセゾニアを絞め殺したのち、押し入ってきたケレアたちの手にかかって自らも息絶える。

1945年9月26日、パリのエベルトー座にて初演。演出はポール・エルトリー、主演はジェラール・フィリップ。当時まだ若手の無名役者だったフィリップの好演もあって記念碑的な成功を収め、50年代にも様々な役者で繰り返し再演された。日本初演は1968年、劇団こだま公演。

ウィキペディアより

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